• 洪均 梁

今、“わたし”に会いにいく

芙桜会の活動の一環で、先日、ある方とお会いし、色々なお話をしたときに、「人と違うことに、誇りを持つ」ことの大切さを感じました。 “人と違うことに悩んでいた私” のことを公にし、人と違うことを恥ずかしいものや悲しいこととせず、「人と違うことがラッキーなんだ」と思えること、そして、その違いを強みに活かし、生きていくことの重要性(強みに活かせることこそ、ラッキーなのですが)を感じてもらえないか、と思いました。 上手くまとめられるか分かりませんが、私の意見を書いてみようと思います。 私も、人に偉そうなことは言えませんが、”他人と違う自分” を意識し、無理に他人(や社会)に合わせようとしたり、それこそ、「自分がどう思われているか」に神経質になって、随分と長い期間、生きてきました。 それは、私が「男性を愛する男」だからであり、女性を愛せない(具体的に言うと、私の場合は、女性は好きになるけれど、性的関係になれないのですが)ことに罪悪感というか、自分に何か問題があるように思え、“社会から疎外されないように“ という気持ちが強く出ていたように思います。 約16年前にカミングアウトしたあとでさえ、「同性を好きになること」に負い目を感じていたように、今、振り返って思うところがあります。 ところが、メンドクサイことに(笑)、“負い目” を感じている分、それ以外のところで “完璧” でありたいとか、“評価” されたいと過度に望んでいた部分があったように思います。 それはきっと、何らかの形で、歪なものとして周りに見えていたのではないでしょうか。 以前、このブログでも書きましたが、小学校から中学校に通う間の9年間、いじめられる経験をしましたが、その最初のきっかけは、「女の子と遊んでばかりいるのがおかしい」という理由からだったように思います。 確かに、私は女の子と遊んでいることが多かったのだけれど、それは、たまたま近所に男の子があまりいなかったからであり、特段、男の子が女の子と遊ぶことが “変” だとは思っていなかったからだけなのです。 5歳や6歳の時点で、「男は男と遊ぶべき」などという価値観は、持っていませんでした。 でも、世間はそうではなかったようで、男の子が女の子とばかり遊んでいるのは “おかしい” と言う生徒が現れ、女のこととよく遊んでいたこともあり、おしとやかさが他の生徒よりも “増量セール” していたのか、“女みたいなやつ” と揶揄され、それらが重なって、いじめへとつながっていったように記憶しています。 中学校も、小学校と校区が重なっていることもあり、小学校でいじめられたまま、その延長宜しく、“オカマ ”だの “おとこおんな” だのといじめられていたわけですが、でも、やさしく声をかけ、私のことを気にかけてくれる女子生徒もいたし、私自身も、成長するごとに、顔つきが変わったり、身長が伸びたりする中で、“オカマ” だの、“気持ち悪い” だの言われることは減っていったように記憶しています。 ただ、未だに、体操着を入れた袋で、下校時に、10人くらいいる前で、何度も殴られた小学生のころの記憶などが、屈辱的で忘れられないのでしょう、夢の中に出てくることがあります。 私の今の気持ちを冷静に見るならば、きっと、私の中に、“昔のこと” と客観視している部分と、トラウマというよりは、未だに根に持っている部分がきっとあるのでしょう。 それほど、いじめは、いじめられた人に重大な悪影響を長期間にわたって及ぼすのだと思います。 私は、今、自分のこれまでの人生を振り返って思うに、いじめられた自分、同性を好きになる自分、あるいは、劣等感を抱えた自分を、認められなかったからこそ、随分と長く卑屈になっていたように、思います。 まるで、“欠陥品のような自分” と、しょうがなく付き合っているような、そんな感覚だったように思います。 昔、経験したことにより、「自分がどう思われているか」に過敏に反応し、過度に傷つき、そして、満足のいく評価を得るために過剰に自分を装っていくようになったと思います。 ところが、厄介なことに、そういう、“装う自分” がいた半面、 「どうせ、あんたは俺のことを、変だと思っているんだろう?」 という気持ちが、常に、心のどこかに潜んでいたようにも、思います。 自分を装い、過剰に評価を意識しながら、厭世的な気持ちも併せ持っている。 私は、性的マイノリティであることを、都合よく、使い分けていたようにも思うのです。 ある部分では、「性的マイノリティで何が悪い」と胸を張りながら、ある部分では、「どうせ私は性的マイノリティだから」と嘆く・・・そういう私だったように思うのです。 そういう相反する気持ちを、常に抱いているのですから、物事がうまくいかないことがあったのは、致し方なかったのではないでしょうか。 しかし、私は、そういう気付きもなく、評価が満足のいくものであれば、当然だと思い、それとは逆に、評価が満足のいかないものであれば、諦めるとか、「どうせ、できない」、あるいは、「どうせ、俺のことをバカにしているからだろう」という考えに逃げることで、自分を正当化していたようにも思います。 時には、評価を得られなかったことを “逆恨み” もして。 今思えば、私も、「自分は、人と違うから」という逃げ道に、依存していたのです。 今の私が、過去の私に会って話が出来るのならば、ひっぱたいてやりたいです。 甘ったれるな、格好つけるなと。 自分が何かをやりとげられない、目標を果たせない、結果を出せないというような、辛い状況に陥ったとき、そういった問題の原因を、「自分が性的マイノリティだからだ」「自分は人と違うからだ。」と結論付けてしまうのは、本当の意味で自分が責任を負うことから逃げることが出来る、お手軽で即効性のある薬(ドラッグ)のようなものなのだと思います。 でも、自分が “生きづらいと感じること” を全て、「私が性的マイノリティだからだ」とか、「他人や社会が性的マイノリティであることを理解していないからだ」と結論付けることが当たり前になってしまうと、薬が効かなくなって、服用する量が増えたりするように、依存の度合いは深刻になり、状況はどんどん悪化していくばかりになります。 それは、生きづらいということの根本を解決してこなかったことに他ならないと断言して差し支えないでしょう。 言い方を変えるならば、「自分は他人と違う」という強みを、間違った方向で浪費しているに過ぎないのです。 もっと言うならば、自分の性的な部分を否定し、愚弄し、傷つけているのは、他の誰でもない、自分だということです。 性的マイノリティであることに依存するというのは、自分が性的マイノリティであることを100%受け入れているとは言えない、つまり、自分が違う要素を強みに変えることが中途半端あるいは出来ておらず、そこにある、本当の自分らしさに気づかず、それを見落とし、常に欠乏感を抱いて生きているということです。 従って、自分の生きづらさの原因を自分の性的要素に求めないということが、自分が持つ “違い” を強みに変える、自分が持つ “違い” を戦略的に社会で生きる上において活用するということなのです。 ところで、私たちは、性的マイノリティとして生きているのでしょうか。 性的マイノリティだから、それぞれに “私” なのでしょうか。 私たちは、それぞれの “私” を生きているわけですが、それぞれの “私” を生きていく中で、その要素としての性的マイノリティと呼ばれる部分があるに過ぎないのではないでしょうか。 それぞれの “私” が、自分の人生を最高のものにするために、精一杯生きていけば、良いのではないでしょうか。 性的要素という、ごく小さな部分を、殊更に意識するのは、止めるべきだと思います。 性的な部分であるがゆえに、忌み嫌われるもののように考えられる向きもあり、なかなか難しい側面もあると思いますが、それこそ、性的な部分を意識せず、生きればいいのです。 私たちには、性的な部分が違うがゆえに、持っている魅力や長けた能力があるのは、真実だと思います。 でも、それを生かせるかどうか、伸ばせるかどうかは、別の話であり、性的な部分が異なることに卑屈にならず、自分がもつ魅力や能力を社会で生きていくために、主体的に発展させる努力が必要です。 「性的な部分がたまたま、他人とは違うとされるものだった」という意識をもち、過度に性的な部分を意識しないよう、私たちこそが、気を付ける必要があると考えます。 ところで、私は、マイノリティというコトバも、私たちの存在自体がマイノリティだと言われているようで、嫌いです。 私たちが存在すること自体に、マジョリティもマイノリティもないのです。 だって、誰もが皆、人間なのですから。 そもそも、マジョリティやマイノリティなんてものは、様々な要素によって、変化します。 例えば私は、身体的に男であり、社会における男女格差を考えた時、私は、自分がどのように意識しているかに関わらず、マジョリティになるわけです。 性的マイノリティというコトバは、「性的な部分でマイノリティとされる人々」ということになるかと思います。 でも、誰を愛するのか、誰に興味を持つのかという部分において、他とちょっと違うということ、この “ちょっと違う” という事実も、愛のバリエーションのなかの一つに過ぎず、それを、多い、少ないで分ける必要もないと思うのです。 もともと、 「そういうひともいるよね」 で片付くことであったはずなのです。 私が男性を好きになり、愛し合うことも、誰かが異性を好きになり、愛し合うことも、人が愛し合うことにおいて、何も差異はないはずです。 人が愛し合うことのバリエーションについて、もっと、意識する必要のないものになっていけば良いと思っています。 この、愛し合うということにもっと自由になるためには、私たちこそ、自分が誰を愛するのか、或いは、自分が誰に興味を持つのか、ということから、解放される必要があると考えます。 念のために申し上げますが、この “開放” は、性的な部分を公にする(カミングアウトする)ことではありません。 これは、自分の内面で、自分と一体化することですから、表には出てこないものなのです。 自分が、自分が誰を愛するのか、或いは、自分が誰に興味を持つのか、ということに頼らず、それらを「小さなこと」と客観視できた時の爽快感を、味わってほしいのです。 もし、性的マイノリティということに依存していた場合は、それを失った喪失感で、自分の無力さを強く感じて恐怖を覚えるかも知れません。 でも、自分が誰を愛するのか、そして、誰に興味を持つのか、ということが、ありふれたものであり、そんなことに振り回される必要はないと気づくことは、自分が本当に向き合わなければならないものや根本から解決しなければならないことを乗り越えていくうえで、欠かすことの出来ないものだと思います。 「愛」となにか・・・これを説明できる人はこの世にいないと断言して差し支えないでしょう。 辞書や、過去の偉人の言葉をもってしても、正確に「愛」を語ることは出来ないはずです。 それは、それぞれの “私” が信じるものが「愛」なのではないかと考えるからです。 愛はきっと、人と同じ分、かたちや意味があり、それぞれに尊いものです。 自分がわかる範囲で思うその気持ち、愛を、大切にしてください。 違っていて当たり前であり、違うことに問題はないのです。 違うことが当たり前であるからこそ、みんなで生きていく為にコンセンサス、つまり、一定のルールや約束事が必要だということなのです。 人は誰もが、「自分らしく生きたい」と願いながら、自分らしく生きられないことに苦しんでいます。 でも、自分らしく生きることが幸せなのかどうかは、疑ってみても良いのではないでしょうか。 そして、自分らしく生きられないことが不幸だと思うこともまた、疑ってみてはいかがでしょうか。 私は、「自分らしくいられる場所を作る」ことが大切なのではないかと、思っています。 それは、自分の家、自分の部屋であっても良いし、勤め先でも、学校でも良いと思います。 もしかしたら、“自分らしくいようと思う心” 自体が、自分らしくいられる “場所” なのかも知れません。 私たちは、子供のころから、いいえ、生まれた瞬間から、「こうあるべき」という自分以外の人やモノに定義づけられたものに揉まれて生きています。

  • 赤ちゃんであれば、こうあるべき(こうであって欲しい・こうであって、しかるべきだろう)

  • 幼稚園児であれば、こうあるべき(こうであって欲しい・こうであって、しかるべきだろう)

  • 男(女)であれば、こうあるべき(こうであって欲しい・こうであって、しかるべきだろう)

  • 就職すれば、こうあるべき(こうであって欲しい・こうであって、しかるべきだろう)

  • 40にもなれば、こうあるべき(こうであって欲しい・こうであって、しかるべきだろう)

「こうあるべき」という思いは、わたしを慮ってのことでもあり、全てを否定する必要はないと思いますが、ときには、負担となり、押しつぶされることもあると思います。 逃げたくなることも、きっとあるはずです。 死のうとしたり、自分を傷つけたりするくらいなら、「逃げたくなったら、逃げたらいい」と、私は思うのですが、“逃げる” というのは、必ずしも、“学校に行かない” とか、“仕事を放棄する” ということではありません。 自分を守るというのは、「自分を守るためにしっかりと生きる」ということです。 自分を守るためにしっかりと生きるというのは、自分の役割を果たしながら、自分の強みを伸ばすということ。 学校での勉強や仕事をおろそかにせず、趣味でも何でもいいから、没頭できるものを持つということであり、没頭するというのは、自分の世界を持つということです。 これは、文字にすれば簡単ですが、学んだり、働いたりしながら自分の世界を持つということは、自分を律するという観点において、何かと障害にぶつかるものと思います。 でも、“そこに、帰る場所がある” という心の余裕があるのかどうかで、随分と楽になれるはずです。 私も、もっと前に、それに気づき、実行していたならば、自分に対し卑屈になっていることからもっと前に解放されていただろうと、後悔交じりにそう思います。 人は、社会との接点やかかわりから逃れることは出来ません。 それは、単純に言えば、一人では生きていけないからです。 だからこそ、社会を拒絶するのではなく、社会で器用に自分を使い分ける要領の良さや図太さが必要です。 要領がいいことや神経が図太いことを恥ずかしいことや褒められるものではないと思わず、守るべき ”自分らしさ” をプライベートスペースにしっかり確保して、社会に飛び出すツールとして身に着けるべきです。 「そんなこと、私に出来っこない」 と仰る方もいるかも知れません。 でも、そういう風に自分を見限ること自体が、自分を浪費し、劣化し、退化させていることに気づくべきです。 自分らしく生きたいと願いながら、「そんなこと、出来っこない」と自分らしく生きることを否定し、諦めているのは、誰でしょう。 自分らしく生きるというのは、自分は “この自分” であること、そして、自分が持つ “違い” を誇りに思う、ラッキーに思うことからスタートし、自分の可能性を否定せず、自分が持つ魅力や能力を社会で生きる器用さや精神の図太さと共に発展させ、実現するものだと、私もようやく気付けたように思います。 「たまたま、性的な部分で少数派とされています(が、なにか?)。でも、それとこれは別です。」という意識で何事にも取り組むことは、今を生きる上で、きっと自分を楽にしてくれるはずです。 自分が性的な部分で少数派とされる(性的マイノリティである)ことを、意識しないで生きられるよう、共に、生きていきましょう。



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