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性同一性と性自認の違い

更新日:2021年4月30日

このブログの読者の皆さんの中には、「性同一性」や「性自認」という言葉を聞いたことがない方も多いのではないでしょうか。

しかし、性的マイノリティを理解するうえで、この性同一性や性自認を正しく理解することは、必要不可欠です。

なぜなら、この“概念”は、正しい理解のもと、的確に使われないと、社会に大きな影響を及ぼしかねないものだからです。

「そんな、大げさな・・・」とおっしゃる方もいらっしゃると思いますが、性同一性や性自認は、正義心や親切心で片づけられないものだということを知ってもらいたいのです。

今回は、この性同一性と性自認について、出来る限りわかりやすくお話すると共に、正しい認識を持っていただけるよう、全力でお話したいと思います。


尚、最初にお断りしておきますが、性同一性を語るには、どうしても、性同一性障害を抱える人やトランスジェンダーの人(ジェンダートランジションの状態にいる人)のことに触れなければなりません。


私は、それらの人々が、悪意;偽りの性自認を騙って、例えば、男性器を有しているのに、自分が自己の性別を女性だと認識していることを根拠に、女性用浴場に入ってくるとか、男の格好で女子トイレを利用するなんてことは、現実の当事者が、奇異の目で見られたくないがために、慎ましく暮らしていることを知っている以上、全く考えていません。

SNS上で見られるような目も当てられないような激しい対立の原因は、LGBT運動家が主張する性自認;生物学的性別を無視した性別の自己決定権では、自己の性別について自称や悪用の可能性を排除できないことにあります。

生物学的性別を無視した性別の自己決定権では、充分な議論がなされていない現状のまま、法律や条例などに彼らが主張する内容で性自認が採用されてしまうと、社会に混乱と分断を生じることは明白であるとともに、性同一性障害やトランスジェンダーの人々が排斥されることにもなり得ると考えます。


今、議論するべきは、「現実に困る人(当事者及び、当事者以外において特に、女性や子ども)がいるのだから、当事者もそうでない人も困らないようにするため、皆で考えよう」ということなのです。

何度も言いますが、性同一性障害やトランスジェンダーであることが問題なのではないのです。


LGBT運動家が主張する性自認は不適切である

TwitterなどのSNS上で繰り広げられる生物学的性別を無視した性別の自己決定権に関する投稿を分析すると、LGBT運動家が主張する性自認は次の3つの特徴があります。

  1. 生物学的性別(SEX・身体の性・出生時に割り当てられた性別ともいう)を無視する

  2. 自己の性別を自分がどう認識するか(第三者・他人は関係ない)

  3. 性別の変更は理論上、何度でも可能(海外のセルフID法では、半年ごとに変更できるなど、制限有)

つまり、「性別は、自分の気持ちで決められるし、いつでも、いくらでも変更できる」というのが、LGBT運動家が主張する性自認、つまり、生物学的性別を無視した性別の自己決定権なのです。

これを知って、読者の皆さんは平然としていられますか?

私は少なくとも、社会の様々なルールや仕組みを根幹から変えてしまうもののように思えてならないので、一部の人間だけで話を進めるのではなく、国民に広く問い、議論をし、社会的コンセンサスを得る必要のあるものだと考えますが、皆さんのご意見はいかがでしょうか。


性同一性と性自認の違い(グラフ)

性同一性とLGBT運動家が主張する性自認の違いを、グラフにまとめてみました。

性同一性の特長は、人が普遍的に持つ、「自己の性別について自分と他人が同一の認識をもつ」という感覚であり、生物学的性別(体の性別・戸籍上の性別)と心理的性別(心の性別)が常に一致していることにあります。

それ故に、自己の性別について自分と他人が異なった認識を持つに至った場合に、要件を満たすことによって性同一性障害(GID)の診断を受け、最終的に家庭裁判所の許可を得て、戸籍上の性別を自分がイメージする性別に移行するのです。

ところが、生物学的性別を無視した性別の自己決定権は、「自分が、自己の性別をどう思うか」が全てであり、他人がどう思うかも、生物学的性別も無視し、本人の申告だけで、自己が認識する性別に移行するのです。

この、“本人の申告だけで、自己が認識する性別に移行すること” が引き起こすかも知れない問題については、後述致しますが、性同一性障害においても、医学的知見のある者、つまり、ドクターであっても性同一性障害を診断するのは至難の業と言っても過言ではないとおっしゃる事実があるにもかかわらず、生物学的性別を無視した性別の自己決定権では、自己決定した性別の真偽・正誤を第三者が確認できないのですから、やはり、手放しでLGBT運動家が主張する性自認を認めるわけにはいかないと言わざるを得ないのではないでしょうか。


性同一性(なぜ、人は悩むのか)

ここでは、性同一性において、「どうして、悩むのか」について検証していますが、その途中で、”これは、性同一性に限ったことではないな” と思うに至りました。

というのは、性同一性においては、二つの違和が存在するからで、その一つは、性同一性に限ったことではないと考えられるからです。

性同一性において、自己の性別について悩む原因は二つあります。

  1. 自分がイメージする性別で、社会的に認められないこと「人がどう見るか」

  2. 自分がイメージする性別で、体が出来ていないこと

1.については、“他人からこう思われたい” という願望は、性同一性に限ったことではないでしょう。

有能な人物だと思われたいがそう思ってもらえないなど、自分が理想とする自分で、周囲が認識してくれないことに対する悩みが、性同一性における第一の悩み(違和)に近いのではないでしょうか。

そして、この「見た目」こそが、一生を通して自分の暮らしに最も深く関係するのです。

なぜなら、悩むのも、克服するのも、他人が自分をどう見ているか次第だからです。

現に、女装をして女性トイレを使用する男性や、その逆で、男装をして男性トイレを使用する女性は、存在するのです。

ここで重要なのは、「そこで問題が起きるか否か」であり、問題が起きなければ、見た目の問題をクリアすれば、どうにかなってしまっている、というのもまた、現実なのです。


2.については、内面における生きるか死ぬかの重い問題ではないでしょうか。

「自分は、女なのに、男の体で生まれてしまった」

いくら逃れようとしても、ずっと一体化している“間違った体”を自分ではどうすることも出来ないのですから、その違和の強烈さは、想像以上の苦しさに溢れているのではないでしょうか。

性同一性における違和は、この2つの要因により発生し、それを克服する必要があります。

しかし、その “違和の克服” は何も画一的、つまり、性別適合手術を受けないと克服できないという人ばかりではなく、例えば下着だけを自分がイメージする性別のものに変えることで満足する人や、プライベートだけ自分がイメージする性別で過ごすことで満足する人、そして、ホルモン治療で足りるという人もいるのが現実です。

ところが、昨今では、性同一性障害と判断される必要性を感じないと公言する人や、ホルモン治療や性別適合手術を拒否する人、そして、「性別の自己決定権」を主張する人が現れたことにより、前述のように、LGBT運動家が主張する性自認を巡る議論が、あたかも性同一性障害を抱える人々やトランスジェンダーと名乗る人々への偏見や差別を助長するかのようなミスリードに繋がっているように、見受けられるのです。

これらの、現状の性同一性障害を抱える人々やトランスジェンダーを名乗る人々の枠から外れ、自己主張をあたかも当事者全体を代弁しているかのように振舞うLGBT運動家については、のちほど、意見を述べたいと思います。


生物学的性別は一生、ついて回るもの

仮に、私が性同一性障害を抱えていたとしましょう。

そして、性別適合手術を受け、戸籍上の性別を女性に変更することが出来たとしましょう。

その後も、一生をかけて、ホルモン治療を受けながら生きていくわけですが、生物学的性別を変えることは出来ません。

例え、戸籍上の性別を、自分がイメージする性別に変更出来たとしても、例えば、重篤な病によって手術などを受けるような事態に陥った際には、元の性別、つまり男性として医療機関にかかる、或いは、元の性別を考慮してもらうといった、自他ともに何らかの配慮なしには、生きていくことは出来ません。

つまり、生物学的性別を無視することは、自分の根幹を否定することであると言っても、過言ではないでしょう。

従って、生物学的性別を無視した性別の自己決定権を、世間の決して少なくはない人々が、“それで本当に大丈夫なの?” と心配するのは、生物学的性別が、人の根幹であることを理解しているからであり、それを無視すれば生きていく上で、“つじつまが合わなくなる” ことに気づいているからです。

生物学的性別を無視し、性別の自己決定権を認めた場合に起こる可能性のある問題については、次段で検証したいと思います。


LGBT運動家が主張する性自認で起きると心配されている問題について

既に触れたように、性同一性障害を抱える人々やトランスジェンダーと名乗る人々のみならず、自分がイメージする性別を装うことによって、例えば、トイレや銭湯(温泉)において、自己の性別(生物学的性別)と異なるスペースを利用している現実が、実数は少ないにせよ、存在します。

これが、犯罪となるかどうかの境界線は、「利用することでトラブルになるかどうか」です。

しかしこれは全て、お互いに配慮しあう、お互いを尊重することが大前提です。

ところが、LGBT運動家が主張する性自認、つまり、生物学的性別を無視した性別の自己決定権では、この大前提が崩れる可能性があり、それが、身体的性差が男女の間にある以上、女性や子どもの命・健康・尊厳を脅かすのではないか、と危惧し、問題提起をなさっている方が決して少なくないというのが現状です。

尚、一言申し上げるならば、「男性器を有する女性が女湯に入ってきて良いのか?」という問題提起は、主語が曖昧で、解釈次第では性同一性障害を抱える人やトランスジェンダーの人(ジェンダートランジションの状態にいる人)の排斥だと捉えられかねず、いささか不適切ではないかと感じますが、これ一つを取ってみても、世の中には、男性と女性を合理的理由により分ける必要性が十分にあるにもかかわらず、そこに、LGBT運動家が主張する性自認では、性同一性障害やトランスジェンダーであることを悪用する可能性を排除できないことに対し、強い危機感があることが認められます。


さて、ここからは仮定の話になりますが、生物学的性別を無視して性別を自己決定出来るようになった場合、どういったことが起こるのでしょうか。

実は、同性愛という概念も、不要になるのです。同性愛がなくなるのだから、同性婚やパートナーシップ制度ももちろん、不要になります。

なぜなら、例えば私が男性と結婚したいと思ったら、LGBT運動家が主張する性自認;生物学的性別を無視した性別の自己決定権に則れば、「私、今から女性なのです」と主張すると戸籍上の性別を変更できる(セルフID)のですから、戸籍上で女性になってしまえば、男性と結婚できるのです。

もう、ここで気づいておられる方もいらっしゃると思いますが、戸籍制度はどうなるのでしょう。

同じ、近藤聡が、ある時は男性、またある時は女性で記録されることになるのでしょう。

この空想でもお分かりいただけたかと思いますが、戸籍制度は早晩機能不全に陥ることでしょう。それで良いのでしょうか。


また、もっと極端な例を考えてみたいと思います。

二人のトランスジェンダーのカップルがいたとします。

二人とも、ホルモン治療は受けていますが、性別適合手術は未定とします。

つまり、トランス男性の生物学的性別は女性で、子宮と卵巣を摘出していない人であり、トランス女性の生物学的性別は男性で、陰茎と精巣(睾丸)を摘出していない人となります。

仮に、2022年に同性婚が認められたとします。

二人とも、性別を毎年のように変更した場合、トランス男性は、母として出産したり、父として出産することが出来るのです。(むろん、母として出産する場合は、トランス女性と言えるのかどうか、疑問は残りますが)

しかも、トランス女性もまた、性別を毎年のように変更した場合、この二人の関係は、同性婚の状態になったり、異性婚の状態になったりするのです。

もう、訳が分からないですよね?

私も、可能性の一つとして考えただけではありますが、何が何だか分からなくなって、収拾がつかなくなる未来を、容易に思い描くことが出来ました。

このように、仮定の話ではあっても、現実に起こり得る問題である以上、かわいそうだから、とか、気の毒だからなどという“オキモチ論”で、LGBT運動家が主張する性自認を採用するのは、危険であると言わざるを得ないのです。

Gender Identityの本来の意味である「性同一性」が、今の日本にとってふさわしいことを、ご理解いただけたら幸いです。


LGBT運動家よ、“己の性自認”のためにトランスジェンダーを利用するな

巷で繰り広げられている、LGBT運動家が主張する性自認を巡る議論において、LGBT運動家が、「男性器はついているが、女性用浴場に入りたいと考える当事者は殆どいないに等しいのに、そんな極端な例を持ち出してトランスジェンダーを排斥するのは差別主義者だ」と議論をミスリードしていることに、私は性的マイノリティのひとりとして、全く賛同できないし、むしろ、LGBT運動家の責任逃れを許してはならないと考えます。

当然、日本は法治国家である以上、男性(性別適合手術を受けていないトランス男性を含む)が、女性用浴場を使えばトラブルを生じ、実際には違法ないし不正な行為として、逮捕されるなり罰せられるなり、何らかの法的責任を負うことは、誰もが理解していることでしょう。

しかし、LGBT運動家は、問題が発生する可能性を問題視している人々を、性同一性障害を抱える人やトランスジェンダーの人(ジェンダートランジションの状態にいる人)をひとくくりにして問題にし、“トランス排除”をしている、あるいは不必要にそれらの人々への恐怖心を扇動しているかのようにミスリードするのです。

彼らが問題にしているのは、あなた方が主張する性自認では、自称や悪用される可能性が排除できず、身体的性差が男女の間にある以上、それが女性や子どもの命・健康・尊厳に大きく影響する可能性があるということであり、当事者の排斥など考えてもいないことを、私は、この記事を通してはっきりとさせておきたいと思います。


あなた方LGBT運動家がしていることは、差別を利用して、自分に都合の悪い存在を排除していることに他なりません。

こんなことを、誰が容認するというのでしょうか。


LGBT運動家が主張する性自認を問題視する人々は、当人の事情(状況)と、問題となる事柄の性質に応じて、合理的配慮とは何かを議論し、当事者のみならず当事者以外の人々も心配なく笑顔で、共に暮らせるようにすることを考えているのです。

また、LGBT運動家は、性別適合手術を「断種政策」と批判したり、自分が性別適合手術を受けないことを「社会への反発」と言って、自分の主義主張を正当化しているようですが、それは、性別適合手術を受けた、少なくとも10,000人の性同一性障害を抱える人々を愚弄してはいないでしょうか。

当事者は、それぞれに思い悩みそして偏見と闘いながら、それこそ、自他の合理的配慮の中で生きています。

そのような中で、自分の欲望を満たすかの如く、当事者自身及び当事者以外の人々の知識不足を利用し、そして相手の善意に付け込み、合理的配慮は個々の状況と事柄の性質によって様々であるべきところ、あたかも少数のLGBT運動家の主義主張が当事者の総意であり、それに対して合理的配慮をするよう要求する傲慢さに、性的マイノリティも含め、世間は眉をひそめ、反発を強めているのです。

もし、あなた方LGBT運動家が訴えるように、男性器を有した人間が女性用スペースに侵入し、逮捕された際に「私の性自認は女性です」と言えば、無罪放免になるなんて考えるのは荒唐無稽である、と言うのならば、あなた方LGBT運動家が、性同一性障害やトランスジェンダーであることを悪用することを防止する責任を負うくらいの覚悟を持つべきです。

また、SNS上で繰り広げられている論争についても、あなた方LGBT運動家は仲裁することもなく、自分に都合の良い主張のみを擁護し、それ以外を差別主義者などと、一緒になって誹謗しているのは、全く誠実さを欠くものと言わざるを得ません。

実際に海外では、例えば、レズビアンであることをカミングアウトした元テニス選手や世界的に著名な作家がトランスジェンダリズムに異を唱えたことで、差別主義者だと糾弾されているではないですか。

トランスジェンダリズムに批判的な意見を述べることのどこに、差別的要素があるのですか?

あなた方はそれにもまともに答えていない。

その反面、疑問を呈することや問題提起をすること自体を、“差別” を用いて異論を封じようと躍起になっている。

もしかして、”性同一性障害やトランスジェンダーであることを悪用するのは、当事者以外の人間なんだから、私たちには関係がないから、我々が主張する性自認を導入して何か問題が起こっても、責任を負う必要はない” なんて、考えてはいないですよね?

もし、そんなことを考えているのであれば、当事者があなた方LGBT運動家に虐げられると共に、当事者以外の人々が当事者を見誤ってしまいかねず、あなた方LGBT運動家の身勝手をこれ以上、放置するわけにはいかなくなるというものでしょう。

また、そうであるならば、あなた方LGBT運動家が主張する性自認は、己の欲望を満たすためだけに作られたものであり、社会に対して無責任な “まがいもの” であると、断言して差し支えないと、私は性的マイノリティのひとりとして申し上げ、あなた方LGBT運動家が主張する性自認を、日本に導入することに、断固として反対することを表明せざるを得なくなります。

なぜなら、仮に何らかの問題が起こった場合、それは犠牲者が出たことを意味するからです。

その犠牲者に、“想定していなかったことだからしょうがない” と言えますか?


「性自認」という言葉をどうするのか

例えば、地方公共団体が作成する性的マイノリティの啓発パンフレットを見れば、我々のセクシュアリティを構成するものは、戸籍に記載されている性を「体の性」と呼ぶと共に、性自認を「心の性」、性的指向を「好きになる性」とし、性表現を「表現する性」などと説明しており、LGBT運動家が主張する内容で性自認という言葉が広く浸透してしまっていることが推測されます。

正直なところ、今から、「Gender Identityとは性同一性なのだ」と言っても、性同一性を浸透させるには結構な時間と手間が掛かってしまうのではないかと危惧します。

そこで、性同一性の定義をもって性自認という言葉を使用することを提案したいと思います。

これは、どの言葉を選ぶのかよりも、「その言葉の意味がどうなのかが、重要」だという考え方で、ここまで浸透してしまった性自認という言葉は、今後も使っていかざるを得ないと考えるのです。

勿論、何度も言うように、その性自認という言葉の意味は、性同一性の定義でなければなりません。

自分が認識する “私の性別” と、他人が認識するそれが、一致しているかどうか、つまり、自己の性別を決定するには、第三者の認識が必要でないとならないのです。

第三者の認識を無視するならば、それは、LGBT運動家が主張する性自認を容認することを意味するのは、言うまでもありません。


最後に

LGBT運動家が主張する内容の性自認の概念を悪用すると、現在、犯罪とされるものが無罪放免になる可能性を排除できないこと;これが、生物学的性別を無視した性別の自己決定権について激しく論争が繰り広げられている原因なのです。

そして、誰も、「そんなことは起こらないから、心配するな。私が責任を持つ」と言わないことが、激しい議論に拍車をかけています。

生物学的性別を無視し、本人の気分で性別を決める、そして、変えられるというのは、“自分らしく生きられるなら、素晴らしいことよね” などという綺麗ごとでは済まない話ではないでしょうか。

もちろん、一度きりの人生ですから、一人でも多くの人が、自分の「この体」で、「本来の自分」で生きられることを、私も、性的マイノリティのひとりとして、願っています。

しかしながら、そのためには、この社会において、どうあるべきか、そして、どう受け入れるべきかについて、一部の人間だけでなく、国民全体での議論が必要です。

その議論においては、当事者が心配なく笑顔で暮らせるようにすることもさることながら、受け入れる側も心配なく笑顔で、共に暮らせるようにすることという観点を忘れてはなりません。

性同一性障害を抱える人々やトランスジェンダーと言われる人々が問題なのではないのです。

問題は、性同一性障害やトランスジェンダーであることを悪用する可能性を、LGBT運動家が主張する性自認;生物学的性別を無視した性別の自己決定権では排除できないことです。

従って、男女の間に身体的性差がある以上、特に女性や子どもの命・健康・尊厳が毀損されてしまうと心配するのは、無理もないことなのです。

「差別」という言葉を使えば、異論を封じ込めると考えるのは、差別の利用です。

我々は、暴力的に “差別” を利用した言論統制や弾圧に、断固反対します。

性同一性でなければならないことを、国民の皆様、そして、特に、一人でも多くの政治や行政に関わる人々に、ご理解いただけることを、強く願っております。

そして、このブログ記事で指摘した様々なことについて、LGBT運動家が「ご安心ください。そのようなことは我々の責任をもって、起こさせません。」と宣言し、万が一のことが起こった際には責任を負うことを期待しつつ、締めくくりたいと思います。

(2021年4月23日初稿)

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