• 洪均 梁

性的マイノリティだから不幸なのではない

世間において、“おかしい” と気づく方も増えてきたように思うのですが、「性的マイノリティだから不幸」という論調に対し、昨今のLGBT運動の問題と絡め、私の意見と提言を述べたいと思います。

「私は性的マイノリティだから幸せになれない」という話の違和感

「私は性的マイノリティだから幸せになれない」という話を見聞きすることがあります。

この後には、

  • 「同性婚が認められないから」

  • 「差別を禁止する法律がないから」

という定型文がくっついてくる(これらは、そういった話に対するコメントやリプライにも頻出する)ことに、皆さんもお気づきのことかと思います。

そもそも、「生きづらさ」というものは、何が原因で起こるのでしょうか。

その理由の最たるものは、「理想と現実のギャップ」ではないでしょうか。

つまり、「理想の(完璧な)私(や生活)ではないが、それなりに楽しくやっている」

と考えるのか、

「理想の(完璧な)私(や生活)ではないのは、社会のせいだ」

と考えるのかで、行動や思考のパターンが随分と違ってくるわけです。

正直なところ、レズビアンの友人と話せば、

「あんた(ゲイ)と違って、あたしたちにはそもそも男女間格差がある」

という話題にもなります。

また、トランスジェンダーの友人と話せば、

「あんた(ゲイ)には分からないかもしれないけど、あたしたちにとって、容姿や性別違和の問題はかなり高いハードルだ」

という話を聞きます。

ゲイである私には、レズビアンやトランスジェンダーだからこそ抱える事情に鈍感なところがあるのかも知れませんが、昨今の “性的マイノリティだから不幸” という論調において「困ったものだなあ」と思うのは、個人的な経験、つまりミクロの問題と、「性的マイノリティである」というマクロの問題を並列で問題視し、それがミスリードの元凶になっていることです。

マクロとミクロを分けないことが、善意の第三者をも傷つけ、困らせ、そして、我々から遠ざけてしまっているのは、我々にとって「損失」以外の何物でもありません。

はっきり申し上げますが、自分が生きづらいのは、属性が理由ではなく、「個人の資質」によるものが殆どでしょう。

自分の資質の問題を、性的マイノリティであるという属性にすり替えて、「不幸ごっこ」をするのは、止めるべきです。

人は、困難に立ち向かい、それを乗り越えることで成長する生き物でもあるわけで、属性に救いを求め、本質的な自分自身の問題や課題から逃げ続けていては、いつまでも生きづらさは解消されず、本人も成長しないと言って、差し支えはないはずです。

そして何よりも、属性のせいで幸か不幸かが決まるのであれば、「男」にだって、「女」にだって、生きづらさがあるわけですが、それはどうなるのですか?

自分だけが不幸だと、不幸に酔いしれ、自分の限界を乗り越えようともせず、いつまでも自分を弱者の枠にはめ続けている。

そんなみじめな自分で良いのですか?

ちゃんと、自分と向き合い、自分を受け入れ、そして、自分と共に、幸せになるために、一歩踏み出さなければなりません。なぜなら、皆、幸せな人生を歩むことが出来るのですから。

LGBTは、唯一、不幸になる可能性がある

ただ、この日本においては、LGBTは不幸になる可能性があると思います。

なぜなら、LGBTとは「性的マイノリティを意味するものではなく、特定の社会運動に連帯できるかどうかの目印みたいなもの」だからです。

これを、LGBTという属性だと勘違いし、「自分はLGBTだ」と思い込み、社会が悪い!環境が悪い!と自己を省みない人生を歩むことで、自分が自分を、社会の落伍者、或いは、はみ出し者にしてしまうのは、明白です。

皆さんも薄々気がついているかと思いますが、「多様性を尊重した社会を!」「Diversity and Inclusionだ!」と声高に主張していたLGBT運動家が、自分とちょっと違う意見の人を見つけると文句を言わずにいられないわけです。

そこに、彼らが、“皆同じ意見の単一な社会” を求めているという本音が透けて見えているのです。

「つらい」「悲しい」という感覚を出発点とし、「同性愛者だから辛かったり、悲しかったりする」という結論にもっていくために、本当かどうか検証のしようもない “実例” をあげて、反差別運動を繰り広げる。

ところが、それをおかしいと指摘すると、当事者であろうが何であろうが「差別主義者」といきなりレッテルを貼り、相手が再起不能になるまで執拗に攻撃するのが、LGBTというものです。

カミングアウトを強要し、LGBTへの連帯を誓わせ、反社会的、そして、反政府のスタンスから社会に混乱と分断をもたらすのがLGBTであり、その活動を支持するというのは、それを支持するご自身が反社会的で反政府の立場であるということを表明することになると言って、差し支えないでしょう。

LGBT運動を支持するのが大切なのではありません。

性的マイノリティである、目の前にいるその人(自分自身)と、人として付き合えるか(自分の人生を精一杯生きていけるか)どうかを考えていただきたいのです。

マジョリティの配慮に甘えるべからず

マイノリティの問題を考えることはとても大切なことです。

社会という枠組み(マクロ)の中で、個別多様な問題(ミクロ)に対応していくことは、社会が円熟していくためにも、必要不可欠なものであることは、明らかです。

ところが、ここ最近のLGBT運動は、「マイノリティの問題を考えるのは、マジョリティの義務である」と言わんばかりに、強引でぶしつけです。

LGBTに限らず、マイノリティが「我々のことを考えてほしい」と、社会に訴えることは権利といっても良いでしょう。

でも、マイノリティの問題を考えるのは義務でも何でもなく、聞くも聞かないも、それを求める側がどう説得するか次第ではないでしょうか。

私も気を付けなければならないな、と思うところではありますが、「(性的マイノリティの)人権(に関わること)だから(マジョリティは)聞いて当然」という論法は、相手に自分の言うことを聞かせるためには結構効果があると思います。

しかし、あくまでも、それを聞くか聞かないかは、相手側の選択に委ねられているわけで、決して、強制するものでも、義務づけるものでもありません。

従って、マイノリティの問題をマジョリティに考えさせる権利があるのであれば、我々のために何か配慮をしてもらったのであれば、その配慮を裏切るようなことを、我々がしてはならないという義務があってしかるべきだと、私は考えます。

身体性(SEX)こそ最も重要視されるべきセクシャリティの構成要素である

セクシャリティは多様であるわけですが、改めて、代表的な3つの構成要素を確認したいと思います。

  • 身体性(SEX)

  • 性同一性/性自認(GENDER IDENTITY)

  • 性的指向(SEXUAL ORIENTATION)

これに昨今、性表現(GENDER EXPRESSION)が取り上げられるようになってきました。

しかし、はっきりとさせておきたいのですが、GENDERがSEXよりも優先されてはいけません。

なぜなら、SEXは、医学や生物学で定義がなされている “不変の定義” ですが、GENDERは社会情勢等で変化できるものだから、GENDERが恣意的に利用されてしまう可能性を排除できない以上は、それを最優先にするのは危険だからです。

ここ最近、トランスジェンダーの定義について、はっきりさせようという動きがあります。

それに対し、「トランスジェンダーの定義を確認しようとすること自体が差別だ!」と言って憚らないLGBT運動家がいますが、私に言わせれば、「なにか、触れられたくない不都合でもあるんじゃないか」と疑うしかありません。

トランスジェンダーの領域には、性同一性/性自認や性表現に関わることも絡み合い、“伏魔殿” の様相を対しています。

そんなことでは、真の理解を得ることは出来ないでしょう。

トランスジェンダーの尊厳のためにも、その定義をはっきりさせる必要があると私は考えます。

例えば、結婚をしていて、子供がいる人が、「性自認は女性だ」と表明すれば、男性器もついていて、身体性は男性であるにもかかわらず、「性自認は女性なのだから」という理由で、女子トイレや女子湯に入ってくることを、素直に認められますでしょうか。

ましてや、それに異議を唱えたら、「差別主義者!」と言われ攻撃されることを容認できますでしょうか。

繰り返しになりますが、トランスジェンダーの尊厳のためにも、その定義を明確にする必要があります。

GENDERを恣意的に利用してはならないのですから。

真の多様性と包摂とは、「そういう人もいるよね~」という感覚

「男らしさ」や「女らしさ」を否定する人もいますが、男らしさや女らしさを求めることや究めることは、決して悪いことではありません。

問題は、特定の男らしさや女らしさを強要することです。

従って、ジェンダーフリーなどというのは、GENDERが固定されていないものである以上、ジェンダーにこだわっているからこその産物だと私は考えます。

例えば、「女言葉を使い、内股で歩く男」がいるとします。

それを「男らしくない」と思うのはその人の勝手です。なぜなら、男という概念に対する考え方の違いに過ぎないのですから、自分が持つ男の価値観を相手に押し付けない限りは、「わたしが考える男らしさからは程遠い」と考えることを止めることは出来ないからです。

そんなことより大切にしたいのは、「そういう人もいるよね」という感覚だと思います。

女言葉を使い、内股で歩く人が、漢気溢れる精神的な強さを持っていることもあります。

短絡的に、瞬間湯沸かし器のように、ちょっとした面だけを捉えて、相手をジャッジするのは、愚かなことだと思いませんか?

我々は、そういう残念なことに苦しんできたのではないのですか?

せめて、我々から、「そういう人もいるよね」「そういう人もいるのが社会というものだよね」という感覚が広がっていくことを願ってやみません。

なぜなら、そういう感覚が、自分の中にある固定観念をも、解放することになると考えるからです。

例えば、「女言葉を使う」「内股で歩く」「オカマ」と聞いて、「我々に対する偏見や蔑視を平気で垂れ流している」と憤慨する人がいます。

それは本当に相手からの差別や偏見が露呈したものでしょうか。

私はあえて、「自分自身が持つ内なる偏見」(フェルトスティグマ)が、自分を憤慨させているのではないか、と提起したいと思います。

現実の社会には、そういう人もいるわけです。

何が問題なのでしょうか。

オカマには、女言葉を使わず、内股で歩かない人もいます。

「そういう人もいるよね」という感覚を持っていれば、短絡的に、瞬間湯沸かし器かの如く、「差別だ!」「偏見だ!」と言わなくても済むのではないでしょうか。

“不幸自慢” するのは止めよう

もう、いい加減、「性的マイノリティであることが不幸でかわいそうなのだ」と喧伝するのは、止めるべきです。

はっきり言って、それに騙される人は大幅に減少しています。

そして何よりも、性的マイノリティであっても、世間で上手く立ち振る舞い、成功している人はいくらでもいるのが現実です。

カミングアウトしているかどうかなんて、関係ありません。

“カミングアウトしないなら、性的マイノリティではない” なんて、へそでお茶が湧くくらいにバカげた話です。

生きづらいかどうかは、

  • この世の中で、上手く生きていけているかどうか

  • 逆境における、自分の気持ちの持ちよう

で、ほとんどのことを解消することが出来ると思います。

人生を「すごろく」に例えてみればいいのではないでしょうか。

自分が不幸なのは、性的マイノリティだからだと、属性に逃げるのではなく、自分で、自分の人生のすごろくを、きっちり “あがり” に出来るよう、サイコロを振り、人生を進んでいっていただきたいと思います。

時には、振り出しの戻ることもあります。

ゆっくりと進み、何度も行ったり来たりすることもあります。

隣の人がどんどん、コマを進め、焦りや不安を募らせることもあります。

でも、そんなときに大切なのは、振り出しからまた始めたとしても、又、同じようなことを繰り返すことになったとしても、卑屈にならず、諦めず、また一歩前に踏み出すことです。

人生はいつでも、やり直すことが出来ます。

そして、誰でも幸せになれるのです。

自分にとっての本当の幸せを、見つけてほしいと思います。

私も、自分の人生すごろくを、真剣にプレイしたい。

共に、がんばりましょうね!

(2020年9月17日 初稿)

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