• 洪均 梁

私たちはいったい、何者なのか①

今回は、私が考えている「私たち」について、提言などを交えながら、3回に分けて、お話させていただきたいと思います。

同性愛者と異性愛者と両性愛者、それぞれが一つになる日は来るのか

同性愛者と異性愛者(トランスジェンダーの人で、性別を変えた上で、異性を愛する人も含まれると、私は解釈しています)と両性愛者は同じではありません。

むしろ、同じでなくていいのです。

但し、それぞれの「違い」は何かを理解する必要はあります。

その「違い」とは何かというと、「誰を愛するのか」の違いであり、私たちの中にある相違は、それしかないということだと、考えます。

つまり、「誰を愛するのか」の違い以外は、「人として同じ」なのです。

でも、同性愛者と異性愛者と両性愛者の違いとは何か、というテーマにおいては、「誰を愛するか」が相違点だと導き出されるわけですが、それ以外の着目点においては、同性愛者も異性愛者も両性愛者も人として何も変わらないということになります。

また、「違いそのもの」も、目の色や肌の色の違いと同様に、普遍的なものであって、人としてのそれぞれを構成するパーツの一つに過ぎず、特殊であったり、異常であったりするような大げさな話ではないと私は考えます。

もっと、自分というものをシンプルに捉える必要があるのではないでしょうか。

同性愛者や両性愛者であることのメリット

私は、同性愛者(LGBT、性的マイノリティ、ゲイetc:なんでもいいです。好きに置き換えてもらえば結構です)だということだけで、身分や境遇を超えて、日本のみならず、世界中の人と繋がり、一体となることが出来るのは、幸せなことだと思ってきました。

ところが昨今、同じ同性愛者の中で、自分や自分が属するグループと相反する立場の人間や団体を執拗に攻撃する人や団体が出てきたのは、この日本において、とても憂慮されるべき問題だと考えます。

なぜなら、日本においては、海外のように宗教的禁忌を起因とする、例えば、同性愛者だからということで死刑を宣告され殺されたりするような、身体や生命が脅かされるヘイトクライムが起こってはいないのであり、一部の人間が(本当に同性愛者なのか、疑わしいケースもあると思われます)が、わざわざ諍いの種を巻き、必要のない混乱や対立を生んでいるように思えるからです。

そのような、少数の人間や団体が起こす騒動に、大多数の同性愛者のみならず、社会も振り回されている現状を憂いています。

私たちは本当に「弱者」なのか

大多数の同性愛者は、自分が同性愛者だということを肯定し、ポジティブに、ありふれた日常を生きています。

例えば、SNS上に顔写真を載せ、自分に起こった出来事を悲喜こもごも綴っている人は大勢います。これが現実なのです。

私も、色々なことがありましたが、それでも、自分が同性愛者だからということでなく、自分の思考や行動パターンをファインチューンすることで、人生のステージを変えてきたと思うし、これからも変えていくのだろうと思います。

ところが、「われわれは社会的弱者だ!」と言って憚らない人や団体の存在が目立ちます。

私たちは本当に弱者なのでしょうか。

皆さんは、障がい者ならば、障がい者福祉、低所得者ならば社会福祉がそれぞれ用意されているところに、もし、同性愛者だからという理由で ”同性愛者福祉” なるものが用意されたとしたら、社会通念上許容されると思われるでしょうか?

例えば、独身のゲイが40万の手取りをもらい、パートナーと同棲して暮らし、片や、その上司が60万円の手取りをもらい、小学校6年生、中学3年生、高校3年生の子供三人を含む家族5人で生活していたとします。そのような場合に、独身のゲイが自由に使えるお金は、上司のそれよりも多いと、容易に想像できるはずです。

ものごとを、一辺から見るのではなく、多角的に見なければ、本質を理解することは出来ません。

私は、私たちよりももっと弱い、支援を受けるべき人たちがいると考えます。

「支援を受けるべき人がいます」なんて言うのも憚られる位に、私たちは恵まれています。

もし、何らかの福祉を受ける必要があった場合には、その人がたまたま同性愛者だっただけに過ぎず、同性愛者だということが理由で福祉を受けることはないのです。

こういったことを言うと、「あなたがゲイだから、そういうことが言えるのです」とおっしゃる方が出てくる。

恐らく、おっしゃりたいのは、男性と女性の社会的格差が、ゲイとレズビアンの間にもあるということだろうと思います。

それは、少なからずあると、私も思います。

しかし、レズビアンのカップルであっても、社会的地位があり、質の高い生活をしている人がいます。

誤解してはいけないのは、ゲイだから、或いはレズビアンだから社会的地位を得て、質の高い生活が出来たのではないということです。

ひとりの人間として、或いは、二人が協力して、夢や理想を現実化した結果が、それだったということなのです。

私も気を付けないといけないと思っていることですが、自分の生きづらさは、自分がゲイであったり、レズビアンであることが元で起こるのだと勘違いすることは、避けなければなりません。

ただ、ここで、絶対に忘れてはいけないことがあります。

それは、Tの人、トランスジェンダーのうち、性同一性障害に悩んでいる人には、今以上の社会的支援が必要だということです。

心が捉える性と体の性が合わない苦痛は、私には想像できないほど耐え難いものであるはずです。

それが証拠に、性同一性障害を抱えている人には、性転換手術に保険が適用されることや、医療制度の充実など、彼らを支えるべく、様々な要望が挙げられているのですから。

普段の生活でも、更衣室、トイレ、制服、履歴書や各種書類の性別記載など、心の性と体の性が一致している人間には ”当たり前” のものが、彼らには全く耐え難い苦痛であるとしたら、その苦痛を和らげてあげられるよう、動かなければならないのではないでしょうか。

はっきりと申し上げると、LGBTという言葉を用いて説明するならば、LGBの問題なんてほとんどないのです。

ほとんどないと言うと語弊があるのならば、「LGBの問題は個人の問題であり、それぞれの個人の努力でなんとかなる」と言って差し支えないでしょう。

Tの問題が、あたかもLGBT全ての問題であるかのように捉えられ、更にLGBT以外の当事者をも巻き込み、社会に混乱を招いてしまったのは事実です。

従って、今後、それらを是正していく必要があると考えます。

LGBTとはいったい、何者なのか

先ほど、大多数の同性愛者は、自分を肯定し、前向きに生きていると申し上げました。

それに加え、「じぶんはLGBTじゃない」と、LGBTを自分とは無縁なものと考える同性愛者や両性愛者、そして性同一性障害などの当事者は少なくありません。

LGBTは、同性愛者や両性愛者など、性的マイノリティの全てを指すと、社会から誤解を受けていると思います。

しかし現実は、自分をLGBTだと認識している当事者は少なく、むしろ、ゲイだの、ホモだの、LGBTだの、オカマだの、言葉の選択が重要なのではなく、自分は自分であり、自分の人生をちゃんと生きていくことに重要性を見出している当事者が大多数なのです。

以前、杉田水脈議員の論文に使われた「生産性」という言葉を巡り、論文の切り取りと曲解に基づく批判が巻き起こり、挙句には自民党本部前での安倍政権退陣をも要求する抗議活動にまでエスカレートしたことがありました。

あの時、我々のソサエティの中で、建設的な議論が出来なかったことが悔やまれます。

もし、あの論文を発端として、我々が自分たちの存在及び社会から直接的及び間接的に受けている支援について考え、議論出来たならば、我々のソサエティがより一層、健全に成長していたように思えてなりません。

あの論文に対して私は、言葉の選び方に乱暴なところがあるものの、LGBTのカップルよりも、子供が欲しくてもなかなか授からない夫婦への不妊治療や、子育て支援に優先的に税金を使うべきだと主張されており、それは至極当然のことだと思いました。

また、私たちは、養子縁組や人工授精を経た形でないと子供は授からない、つまり、特別なプロセスを経ない限り、「人口の再生産」は出来ない以上、少子高齢化の問題を考える上でも、もっと生産性のあるものに税金を投じるべきだと言われても何ら問題はなく、むしろ、現状を踏まえた建設的な提言だと捉えた人は少なくないはずです。

私たちは、社会の一員として労働をし、税金を納め、社会を円滑に機能させることに貢献しています。そして、子供に教育を与えている人も少なからずいるのですから、この社会における「生産性」は十分にあるのです。

もし、杉田水脈議員(もちろん、杉田さんは同性愛者に理解のある方です)が、「LGBTなどという得体の知れないものに、支援などする必要がない」と言っていたとしても、我々がすべきだったのは、「何を生意気なことを言ってやがる、この小娘が」という気概で、一笑に付すことだったように思います。

だって、何度も言いますが、我々は、社会に対して十分、貢献をしているのですから。

(2020年7月8日 初稿)

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