• 洪均 梁

私たちはいったい、何者なのか②

今回は、私が考えている「私たち」について、提言などを交えながら、お話させていただく、その2回目になります。

性的指向・性自認の公表(カミングアウト)

カミングアウトにはリスクがあります。

性的指向や性自認を公表することがゴールではありません。それをすることで、新たな局面がスタートするのです。

そして、性的指向や性自認を公表する側だけでなく、性的指向や性自認を公表される側にも負担を強いるものでもあります。

従って、カミングアウトをする、しないは全て、自分が決めることであり、誰かに言われてするものではありません。 また、「しなければならない」義務や責任はありません。

自分が置かれた環境に応じて、「しない」ことを選択することもできます。

そして何より、カミングアウトすることが ”かっこいい” とか、”正義” であるわけでは、絶対にありません。 全てはあなたの自由であり、あなたに委ねられているのです。

私は、2006年6月28日にカミングアウトしましたが、だからと言って、カミングアウトをしなさい、と他人に言うつもりはありません。

むしろ、「私が経験したことを教えることはいくらでもしますが、自分はどうしたらいいかは、あなたが決めてください」と、アドバイスしています。

私は幸運なことに、両親に受け入れてもらうことが出来ました。そして、勤務先でも理解ある仲間に恵まれ、充実した日々を送っています。

しかし、自分が想定していなかった形で、「近藤聡はホモである」と第三者に公表されてしまうなど、必ずしも、うまくいかなかったことは、枚挙にいとまもない位、沢山経験してきました。

また、私は、自分の性的指向や性自認を、全ての人にしているわけではありません。

する必要がないと判断したり、しなくても察してくれているであろうと思われる場合には、敢えて言う必要はないと考えています。

そして何より、カミングアウトしても受け入れてもらえないというケースは、世の中にいくらでもあります。

もしかしたら、私の “成功” は、特殊なケースなのかもしれません。

また、自分が期待していたようにいかなかったとき、つまり、悪い結果になったとき、誰も助けてはくれません。

責任を取るのは自分しかいないのです。

どうにかなると嵩を括る人もいるでしょう。そして、どうにかなった人もいるでしょう。

でも、世の中には「秘め事」という言葉があるように、内に秘めたる美学というのでしょうか、”言わない美徳” もあることは、忘れないでいただきたいと思います。

また、視点を変えて、「カミングアウトされた側の人」のことを考えてみましょう。

カミングアウトをされた人というのは、「誰かの秘密を突然渡された人」と言えます。

ですから、”渡された秘密” を、どこに持って行っていいかわからない、或いは、どう扱えばいいかわからない人がいても、それは問題でも不自然なことでもなく、ごくありふれた反応の一形態であり、当然だと思います。

昨今、性的指向・性自認の公表(カミングアウト)の問題において、言う側(公表する側)の都合ばかりが優先され、言われた側(公表された側)の都合があまり考慮されていないように感じます。

カミングアウトに対する ”見返り” を求めすぎているのではないかと疑問に思うのです。

公表された側がするべき模範的な例として、「『言いにくいことを勇気を出して、私に言ってくれて、ありがとう』と言いましょう」などと紹介する自治体まで現れましたが、言われた側の都合は考慮されていないと思われ、偏りが大きすぎる気がしますし、そもそも、自治体が一方の当事者側に立って、個人間の問題にまで介入する必要があるのかどうか、私には納得できないものがあります。

公表される側にも、例えば、「そんなこと、私に言われても困る。」と、性的指向・性自認の公表を拒否できる配慮も必要ではないでしょうか。

そうでないと、例えば、公表した側の気持ち次第で、公表された側の態度や対応の善し悪しが判断されるというのであれば、ひどい場合には、公表した側の事情が優先されることを悪用し、恣意的な運用が ”カミングアウトされた被害者” を生み出す可能性もあると、私は危惧します。

何度も言いますが、出来る事ならば、自分が思い描いたように、”ハッピーエンド” を迎えたいと思うのは、無理もないと思いますが、カミングアウトすることには、常にリスクが伴います。

しかし、”現実はそう甘くはない” と言わざるを得ません。

例えば、信頼していた人が、自分の知らないところで、

「あいつ、オカマだったんだって!俺、あいつから告白されたんだよ!」

と言っている、なんてことを、その前後の会話などの情報もなく、人づてに聞くこともあります。

そういうことに出くわしたときに、それを冷静に分析することもなく、瞬間的にネガティブに捉え、いちいち傷つき、相手を恨んだりするようでは、カミングアウトする素質がないと思われ、性的指向・性自認の公表はしないほうが、あなたの身のためだと、私は思います。

昔から、「人の口には戸は立てられない」と言うではありませんか。

自分が想定もしていなかったことは、「起こって当然」だという気持ちで、まずは冷静に受け止めるしかありません。

そのうえで、どのように反応・対応するのか、もっと言うならば、どのように生きていくか、を考えるべきです。

いちいち、「さべつだ!」と騒ぎ立てて、自分の都合を押し付け、他人の行動や思考を管理しようと躍起になるのか、あるいは、不快な気持ちを一旦は抑え、想定していなかった事象に正面から向き合い、「ゲイだと認識された自分」として堂々とし、相手と距離を取りつつ、仕事など自分が果たすべき責任や役割に集中するのか…その選択は自分次第です。

カミングアウトをしたことで、あなたが他人や社会からの信用や信頼を失い、人として扱いづらい存在になってしまわぬよう、人と人とのつながりを大切にし、公表される側の都合にも配慮しながら、あくまでもこの社会の一員として、つつがなく暮らせるよう、自分の責任において、性的指向や性自認を公表するのかどうかを判断していただきたいのです。

何度も言いますが、カミングアウトはしなければならないものではなく、しなくてもいいものなのです。

さて、究極論をお話したいと思います。

カミングアウトが、”公表する人間と公表される人間、その両方の問題” である以上、とかく、公表する側の都合を優先する風潮が強い昨今ではありますが、それに安易に乗っからず、双方の都合を公平に取り扱い、いずれか一方が何らかの負担を強いられるようなことがないよう、慎重に議論を重ね、最終的には、カミングアウトなどする必要も、される必要もない社会の実現を果たすべきだと考えます。

そもそも、カミングアウトをするのは、性的指向・性自認の公表をする何らかの事情があるからです。

では、その「事情」とはいったい何なのでしょうか。

  • 「そろそろ嫁さんを迎えたら?」と言われるのがうっとおしいから?

  • 自分がゲイだということを隠すのはおかしいと思ったから?

理由は何であれ、それは本当にカミングアウトするべき理由なのかどうか、行動する前に、十分すぎるほどに突き詰めるべきであり、カミングアウトはあくまでも最終手段として考えるべきだと考えます。

また、カミングアウトはされる側にも負担を強いるものである以上、”カミングアウト=善” などと思い込むのは非常に危険です。

性的指向や性自認を公表すること及びされることにおける ”究極のゴール” とは、「カミングアウトに頼る必要のない環境」を実現することです。

例えば、

「男が好き?あ、そう。で、なに?」

という言葉を、どう解釈するでしょうか。

真剣に取り合ってくれないと憤るでしょうか。

あるいは、性的指向や性自認ではなく、私自身を見てくれているのだな、と感謝の気持ちが湧いて来るでしょうか。

「性的指向や性自認なんてどうでもいい。私は、人としてのあなたが好きなのよ」

と、誰が好きであるかなどということが、特段注目されることのない、取るに足らないありふれたものになることこそ、我々が本当に求めている究極の ”理想郷” なのではないのでしょうか。

とかく、自分の性的指向や性自認をはっきりとさせたがる風潮が強く、そして、それが当然のことのように思い込んでいる節が、我々にも、自治体を初めとする社会にも、あるように感じます。

でも、ちょっと考えたら、いちいち自分はゲイです、レズビアンですと会う人すべてに言う必要があるのかどうか、疑問に思えてきはしないでしょうか。

あなたは、ゲイである自分、レズビアンである自分を認めてほしいのでしょうか。

私は、認められるべきは、「人としてのわたし」であって、私を構成する一つの要素に過ぎない、性的指向や性自認ではないと考えます。

性的指向や性自認が、あたかも私の全てであるかのように、様々な形で伝えられてきましたが、それはちょっと違うのではないでしょうか。

実は私も、カミングアウトした当時、自分の性的指向や性自認をはっきりとさせることが、自分のアイデンティティを確立させる重要な役割を果たすと考えていました。

でも、実際には、性的指向や性自認が、私の全てであるという思い込みであったように、思えてなりません。

性的指向や性自認を公表することで、「承認されたい」という気持ちを満たしてはくれると思いますが、果たしてそれが本当に自分が求めていた「承認」だったのでしょうか、あるいは、実現させるべき「承認」だったのでしょうか。

カミングアウトが必要なのではなく、「わたし、それ自身が人として、ごくありふれた一人の人間として受け入れられていること」、それが、我々一人一人が渇望していることなのではないでしょうか。

カミングアウトが、自分が生きていく過程における様々な問題を解決してくれることはありません。

カミングアウトをすれば世界が変わるとか、生きやすくなるなんて思わないことです。

自分のアイデンティティを、性的指向や性自認ではない、何か他のもので見出し、それを強みにして、社会的成功を収めていただきたいと思います。

もちろん、性的指向や性自認をアイデンティティとして生きていくことも、可能です。

でも、性的指向や性自認を前面に押し出す必要があることは、そう多くはありません。

ご自身がそういった、限られたもので生きていく場合を除いては、性的指向や性自認が自分のアイデンティティの全てであると思うのは、危険だと考えます。

カミングアウトなんていうものは、あなたが考える社会的成功を達成したあとでしても、遅いことはないのです。

むしろ、そのほうが健全かもしれません。

もちろん、”墓場まで持っていく秘密” として、一生涯、カミングアウトなんてしなかったとしても、全然かまいません。

大事なのは、自分の性的指向や性自認を明らかにしているかどうかにかかわらず、「同じ仲間」として、互いに有形無形のエールを送りつつ、共に、この世の中で切磋琢磨し、生きているんだと、他人を思いやり、互いの人生に共感しながら、自分の人生をしっかりと生きていくことです。

世の中には様々な人がいます。

これは、同性愛者に限ったことではありません。

様々な人がいて、様々な考えがあり、人それぞれに幸福のかたちがあります。

誰かが定義づけた幸せや、誰かが用意した枠にとらわれることなく、自分の幸せを大切にしていただきたいと思います。

そして、自分以外の幸せも大切に出来る心の広さ、余裕をなくさないようにしたいものです。

(2020年7月9日 初稿)

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