• 洪均 梁

私たちはいったい、何者なのか③

今回は、私が考えている「私たち」について、提言などを交えながら、お話させていただく、その3回目(最終回)になります。

心を強く持ち、自分の人生に責任を果たすということ

いつから、同性愛者は弱者であり、不幸な存在と決めつけられるようになったのでしょうか。

一部の方は、「同性愛者(LGBT等にも置き換えられる)だから、不幸なのだ」とおっしゃいます。

しかし、同性愛者(LGBT等)だから弱者なのではなく、「同性愛者(LGBT等)だから弱者なのだと自分に言い聞かせ、物事に正面から立ち向かうことから逃げている自分」に問題があるのです。

同性愛者(LGBT等)だから弱者なのだというような主張を聞くたびに私は、本当に ”社会的に追い詰められている人達” に失礼な話だとがっかりするのです。

また、「私たちは耐え難い生きづらさの中で生きることを強いられている」と訴える方もいらっしゃいます。

この「生きづらさ」とはいったい何なのでしょうか。

生きづらい、と感じるのは、人それぞれによってその度合いが異なります。

私にとって ”たいしたことではないもの” が、隣にいる人にとっては ”とても重要な意味を持つもの” であったりするのと同様に、生きづらさを感じた人間が「生きづらい」と言えば、それがなんであれ、生きづらさになってしまう危険性を内包していることに、留意する必要があります。

生きづらさは個人の問題であり、コミュニティ全体の問題ではないのです。

もちろん、傷ついたり、困ったりすること、例えば、女装や男装など、性同一性障害に悩む人が、他人が考える私の性と異なる見た目となる男装や女装をしたら驚かれたり、私でも経験しましたが、普段のなにげないしぐさや言葉遣いを揶揄されることなど、生活をする上での様々な困りごとがあると思います。

でも、そのほとんど全ては、自分が社会的地位や生活のグレードを上げること、そして、何か自分に特殊性や専門性を身に着け、差別化を図ることで克服することが出来ます。

また、そういった物質的な変化で克服するだけでなく、自分の考え方や行動パターンを変えることによっても、乗り越えることが出来るのです。

例えば、

「お前のしぐさ、女みたいでなよなよして、気持ち悪い」

と言われたとします。

その時に心の中で、

「所作が美しいから。しょうがないなぁ」

とほくそ笑み、相手にしないのと、

「うるさい!いちいち癪に障る!訴えてやる!」

と感情むき出しで騒ぎ立てるのとでは、精神的な負担や肉体的な疲労は随分違ってくるはずです。

本来であれば、そういった ”気持ちの良くない気分にさせられること” に対して、知恵袋的な対処法をソサエティの中で蓄積、共有することで、上手くやっていける「術」を皆が身に着けられたら、個々人の成長にもつなげられて良いと思うのですが、残念なことに、それを「生きづらさ」の一言で片づけ、レッテル貼りをし、その生きづらさとやらの(いつまでも終わらない)撲滅にエネルギーを注ぐ一部の人間や団体が悪目立ちしているのが、大変残念であります。

そして、一部の方々は、すぐに「差別だ!」と騒ぎます。

「差別」とはいったい何なのでしょうか。

先にも述べましたが、本物の差別とは、同性愛者ということだけで、身体や生命が脅かされることです。

そして、同性愛者だということで就職出来ないことや用意されている行政サービスが受けられないこと、そして、ストーンウォールのように、同性愛者が多数集まるバーだということで、そこに集う同性愛者を警察が逮捕することや、宗教的禁忌により同性愛者の存在を認められないようなことを指すのです。

日本にそんな「差別」があるのでしょうか。

これを言うと、「日本では同性間婚姻出来ないじゃないか!」とおっしゃる方がいます。

同性間婚姻については、別の機会に書こうと思いますので、お楽しみに。

話を戻しますが、日本には、残念ながら、無理解から来る配慮を欠いた言動や、誤った対応は少なからずあります。

だからと言って、想像力に乏しい、無理解から来る冗談やからかいに「さべつだ!」とかみつき、騒ぎ立てることは、決して我々のためにはなりません。

むしろ、相手の心の中に差別感や嫌悪感を生み、膨らませてしまうものだと考えます。

無理解が故の冗談やからかいをなくすために我々がすべきことは、お互いを理解しあえるよう働きかけることであり、決して、差別だと騒ぎ立て、力や何かで相手を屈服させることではありません。

ましてや、力や何かで弾圧されてきた海外の我らが同胞たち(同性愛者)の惨状を数多く目の当たりにし、暴力や権力で屈服させられてきた彼らのようなことは、この日本において、あってはならないと声を挙げたのは、他の誰でもない私たちではないですか。

随分とぬるいことで、さべつだ!さべつだ!と騒いでいやしないでしょうか。

もし、力や何かで相手を屈服させるようなことを繰り返していたならば、自然に我々は社会の「のけ者」にされてしまうことでしょう。

我々はアンタッチャブルな存在、触れてはいけないものになろうと、自分を可視化してきたのではありません。

社会の一員として、穏やかに、静かに、平和に暮らしたいだけなのです。

人それぞれにある「幸せ」を大切にして、生きていきたいだけなのです。

それ以上のものを求めたとしても、何も得るものはありません。

就職すること、そして、働くこと

よく考えていただきたいのです、性に関することを他人に話す誰かのことを。

例えば、自分の奥さんとのセックスを嬉々として話す人のことを、信用できますか?

「ちょっと、この人、おかしい」と口には出さずとも、心でそう思われ、見えない、一度できたら崩すことのできない壁が出来ていること(=信用をなくすということ)に気づかなければなりません。

「あなたは、同性愛者として働くのでしょうか?」

こう聞けば、

「そうです。だって、私は同性愛者なんだから。」

と答える方がいらっしゃいますが、そう言えるのは、募集要項に「同性愛者を募集」と書かれていたり、同性愛者でないと出来ない仕事をする時だけです。

我々は、同性愛者として働くのではありません。

会社も、同性愛者が欲しいのではなく、「その会社にとって、必要とされる優秀な人材」が欲しいのです。

その、“必要とされた人” が、たまたま同性愛者だったということに過ぎないのです。

同性愛者として採用されたいと思って就職活動をしても、自分が望むような就職を実現することは、余程その人に高い専門性など、他人よりも秀でたものがない限りは、難しいことでしょう。

もちろん、同性愛者に対する福利厚生が充実しているかどうかで仕事を選ぶ人もいます。

でも、福利厚生が充実しているかどうかで仕事をするのではありません。

「自分のしたいことが出来るか」

「自分の能力に見合った待遇、給料がもらえるかどうか」

で、会社を選ばなければ、本当に就職するべき会社には巡り合えないし、仮に就職したとしても、その会社で活躍することはなかなか難しいでしょう。

ところが、こういう風に申し上げると、「みんな、それが出来たら苦労しない」という方が出てくる。

甘えるのもいい加減にしなさい、としか言えないわけです。

皆、資格を取ったりすることで何か自分に付加価値をつけ、他人との差別化を図り少しでも良い条件で働くチャンスを無駄にしないことに必死なのですから、同性愛者かどうかに関係なく、働くことをやめるまで、自分の魅力を高め、維持し続けなければなりません。

それが思うようにいかず、自分の夢や希望と妥協して、就職している人はごまんといます。

色々な理由で退職せざるを得ず、人生を軌道修正してきた人も、星の数ほどいます。

「一番になろう!」と努力をしたにもかかわらず、一番になれなかったとしたら、それまでの苦労を慰め、努力を讃えもするものですが、一番になろうという気持ちもなく、自分の成長を図ろうともせず、現実から目を背け、同性愛者(LGBT等)だから就職出来ないなどと自分をあざむいていては、いつまでも自分の生活を向上することは出来ません。

自分の人生は、自分でしか、何ともしようがないのです。

「自分は同性愛者だから、上手く就職できないんだ」などと、自分の力で未来を拓くことから逃げていては、何の解決にもなりはしません。

夢の中では、虹の橋を渡って、白馬に乗った王子様か馬車に乗ったお姫様がやってくるのかもしれませんが、いつまでも、夢ばかり見ていては、自分を浪費するだけで、何も生み出すことはありません。

”夢を見て現実逃避すること” と、”夢の実現のため切磋琢磨すること” は全く異なります。

なにより、これからは、AIなどが自分のライバルになる時代です。

人間が働くということ自体が、激しく変化していく時代の中を、私たちは生きています。

空を見上げていたら、虹の橋を渡って仕事がやってくることは、絶対にありません。

お互いに、頑張っていきましょう。

社会的な多様性と包容・包摂(Diversity and Inclusion)とは

多様性とは、「自分と相反する意見をも尊重する」ことであり、社会的包容・包摂とは、「自分と相反する人間をも認める」ことです。

本当の意味で多様性と包容・包摂が実現した社会というのは、お互いの相違を認め合いながら、相違を元に、対等に建設的な議論が出来ること、そして、対等であるがゆえに忌憚のない意見を出し合うこと、そして、その議論の末にお互いが納得する形で、人間や社会の成長や成熟に繋がる結論を導き出せることだと考えます。

例えば、芙桜会でも、ちょっとしたことで、「この芙桜会という訳の分からない団体は、成長しない」と何の根拠も示さず、一方的に結論付けられたりします。

でも、これでは何も生まれないのです。(何も生ませたくない、ということでもあろうとは思いますが)

議題:今のままでは、芙桜会は成長しない。

確認:なぜ?

議論:その「なぜ?」を芙桜会の成長につなげるにはどうしたらいいか

解決:Aという行為をBという行為に変えるべき

結論:芙桜会は確実に成長できる

このような形で、同性愛者のコミュニティにおいても、考えやアクションの取り方に違いがあろうとも、同じゴール、つまり、「同性愛者がより一層幸せに生きること」に向かって、その頂点を目指してそれぞれが切磋琢磨しあって、昇っていくべきです。

そして、お互いに頂点に立てたことを讃えあい、喜びを共有し、分かち合うべきです。 私は、そんな成熟したコミュニティを、芙桜会の仲間や、賛同し協力してくださる人々と共に、実現させるべく、全身全霊で取り組んでまいります。

(2020年7月10日 初稿)

閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示