• 洪均 梁

芙桜会が提唱する「心の多様性と社会的包摂」とは ①

更新日:2021年3月24日

皆様、ご機嫌いかがですか?

この記事では、芙桜会が提唱する「心の多様性と包摂;MIND DIVERSITY AND SOCIAL INCLUSION」について、二回に分けて、お話させていただきます。

★総論

「心の多様性と社会的包摂;MIND DIVERSITY AND SOCIAL INCLUSION」は、私たちが普段何気なく使ってきた「(男性・女性)同性愛者」「性的マイノリティ」「LGBTIQP…」「ゲイ」「レズビアン」等を越える概念として、2020年8月1日頃にふと私の頭に浮かんだものです。

「心の多様性と社会的包摂;MIND DIVERSITY AND SOCIAL INCLUSION」は、私たち性的マイノリティが、自分自身を考える上でも、そして、自分の人生を生きていく上でも、深く悩んだり、酷く苦しんだりする必要なく、あなたをもっと自由にし、そして、自分に誇りをもたせてくれるものだと考えます。

そして、よりスムーズに社会の一員として日々の生活を営み、自分の人生を全うすることが出来る、欠かすことの出来ないものにもなれると考えます。

しかし、心に多様性と包摂をもつことは、普遍のものであり、この目まぐるしく変化する社会において、まさに、一旦立ち止まり、元々持っているこの「心の多様性と包摂;MIND DIVERSITY AND INCLUSION」が、自分の中に確かにあることを再認識するべきことであり、なにも、特別なものでも新しいものでもないのかも知れません。

性的マイノリティであるかどうかにかかわらず、「今を生きる全ての人」が忘れてしまっているだけのものであり、そんなに特別視するほどのことではないのかも知れないな、とも思いつつ、この「心の多様性と社会的包摂;MIND DIVERSITY AND SOCIAL INCLUSION」を提唱していきたいと考えています。

また、私は、この「心の多様性と包摂」が、我々を取り巻く環境を複雑化し、当事者を置き去りにしながら過激化する “LGBT運動” の正常化に寄与すると共に、この社会から差別をなくす一助となることを切に希望します。

人それぞれが、それぞれの信じる価値観、愛、美学を持っています。

それらには優劣も大小も正誤もありませんし、それらは、社会的役割や身分や属性を超越しています。

互いが等しく、お互いを受け止め合い、そして、それぞれが自分らしい生き方を貫けることを、願っています。

© 2020 FUOHKAI Federation for the Promotion of Sexual Orientation and Gender Identity Understanding in Japan / All rights reserved. ★性的マイノリティの課題は人権の問題 社会全体で性的マイノリティについて考え、自治体や企業で積極的に取り組みがなされていることは、喜ばしいしいことです。 LGBTの問題は、思想信条やイデオロギーの問題でもなく、ましてや、病気や趣味の問題でもないことが認知され、世間の無理解に苦しむ当事者の人権の問題、つまり、生まれた境遇や身体的状況によって差別や偏見がなされてはいけないとして、差別や偏見のない社会への取り組みが進んでいる限りにおいて、感謝以外の何物でもないと言えます。 これは、日本では、古来、特に中世より性に関する多様なありかたについて、厳格ではなくむしろ寛容的であったこともあり、一旦、取り組みが始まると、明治維新以前の社会に先祖返りするようなところがあるのではないか、と思う節があります。 話はちょっと変わりますが、私が、日本において「同性愛が違法とされたことはない」と言うと、「世間知らず」とLGBT活動家から批判を受けることがあります。 これは、明治5年(1872年)に「鶏姦(けいかん)律条例」が発令され、鶏姦(肛門性交)を禁止する規定が設けられ、翌明治6年の「改定律例」で「鶏姦罪」として規定しなおされたこと、そして鶏姦罪が明治15年の旧刑法施行時に盛り込まれなかったことにより、この10年間が、「日本で男性間の性行為が犯罪とされた唯一の期間とみなされている」ので、それを根拠に「世間知らず」とおっしゃるようなのです。 しかし、はっきりと申し上げておきたいのですが、肛門性交をするのは、同性愛者だけではないわけだし、これこそ、知っていていただきたいことなのですが、同性愛者が全員肛門性交をするわけではないのです。 もし、LGBT活動家が、「男性同性愛者は全員、肛門性交をする」なんていうことを言ったり、それを前提に講演活動や執筆活動などをやっているとしたら、それこそ「世間知らず!」とでも言えるのではないかと思います。 ただ、皆さんもお気づきかも知れませんが、この鶏姦罪は、肛門性交を禁止したものであり、肛門性交をしなければ問題はなかったわけです。 当時の新聞報道を研究された方によれば、その報じ方から「同性愛を犯罪扱いしていた」と分析なさっているようですが、肛門性交=同性愛ではないのですし、肛門性交を禁止したから同性愛が禁止されたというロジックは、性的マイノリティの実感としては、証拠不十分なものと言えるのではないでしょうか。 また、2700年近く続く日本の歴史において、たった10年、肛門性交を禁止した「鶏姦罪」の存在をもって日本における「同性愛=違法」の時代があったとするならば、これは、日本に同性愛を禁止した時代などないと言っても差し支えはないと思いますが、読者の皆さんはどうお考えになりますか。 鶏姦罪の存在が、例えば、歌舞伎の女形など性別に固定されない在り方を楽しむ文化を否定したのでしょうか。伝統芸能の中に脈々と息づいていたり、中世文学作品に残された同性愛的表現が禁止されたのでしょうか。 古来、日本では、性的指向・性同一性の多様なありかたが受容されてきたと言って、何ら問題はないでしょう。 ただし、欧米のような、同性愛者というだけで、殺されたり、刑務所に入れられたりするような “熾烈な差別” はないとしても、未だにいじめの対象とされやすい現実もあり、学校や職場、社会生活等において、当事者が直面する様々な困難に向き合い、課題の解決に向けて積極的に取り組む必要があるのは、確かです。 そのためには、「男女のカップル以外は不道徳である」というような無理解から来る誤解を解くなど、社会における性的指向や性自認(性同一性)に関する理解の増進が今、必要です。 私は、「そういうこともあるよね」と、自然に受け入れられる世の中が、私が生きているうちに実現するよう、私も仲間と共に活動したいと考えています。 ただ、その一方で、差別の禁止など、性的マイノリティが抱える困難の原因を抑え込むような段階には程遠いと考えます。 なぜなら、現状においては、確かに、無理解、知らないことによる誤解から生じる不適切な発言は存在しますが、それに対しいきなり “差別” と指摘されても、何のことかよく分からない場合が多々あるからです。 それは、例えば、教育を受けている限りにおいては学校で、社会人になれば、日常の生活の中で、同性愛について学ぶ機会がほとんどないのが、原因ではないかと考えます。 それを鑑みますと、性的マイノリティのことを知る機会を設け、正確な情報を得られることがまず先に来る必要があると考えます。 そして、差別の存在を前提とする「差別禁止」ではなく、差別のない社会を作るために何をするのかを、皆で考え、実行していくことこそが、真に求められていることであると私は考えます。 それは、当事者やそれを支援する人々にとって問題となる、例えば、映画やドラマのシーンにしても、個人の意識が高まらない限り、そこにいきなり強い抗議行動を持ってきたところで、人々との心の通い合う真の理解は得られないばかりか、更に溝を深める可能性があるからです。 しっかり向かい合い、袂を分かち合えば、多くの皆さんに理解が広がります。 理解の進展とともに、差別は少しずつ、そして確実に解消されていくことは間違いないのです。 言葉の矛盾 「おかま」「おとこおんな」「ゲイ」「ホモ」「レズ「レズビアン」「バイ」「バイセクシャル」「トランス」「トランスジェンダー」「FtM」「MtF」「パンセクシャル」「ノンセクシャル」「Aセクシャル」「クエスチョニング」「ジェンダーフリュイド」「同性愛」「異性愛」「両性愛」「LGBTIQP…」・・・思いつくままに、どんな言葉でセクシャリティやセクシャリティの構成要素を表しているか、書いてみましたが、意味の良く分からない言葉もあって、クラクラしている読者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。(これでも、全てではありません) 有名な話として、Facebookでは、58種類の性別が用意されているそうです。 58種類ですよ、皆さん! “LGBT” だけでは捕捉出来ない、性的マイノリティの世界の広さを、少しは垣間見ていただけたでしょうか。 しかし、私は、敢えて、そんなに性別を細分化する必要はなく、むしろ、社会が円滑に動いていくことを優先する限りにおいては、男と女に二分したままでも構わないと考えます。 それは、自分が何者であるのかをはっきりさせることや、自分をどういった存在として認められたいかについて、性別で対応するのには限界があることと、性別の細分化が行き着く先はジェンダー=フリーではないかと疑問を持っているからです。 そしてなによりも、私たちは、性別はもとより、LGBTや性的マイノリティなど、何らかの記号やコトバで定義づけされたうえで、誰かに認められることを、求めているわけではないからです。 私たちは、「一人の人間として偏見や誤解なしに認められたい」のです。 私たちは「何か、別の存在」ではなく、ブログの読者でもある皆さんと「同じ人間」なのですから、「誰を、どのように愛するのか」が違うだけで、”マイノリティ” だとか ”XX愛者” などと区別される必要は、本来はないのであって、なぜ、自分をカテゴライズすることに固執する必要があるのか、疑問です。 2000年から海外で同性婚など、性的マイノリティの権利が認められてきたことにより、それをなぞるかの如く、日本でもLGBT運動が盛んにおこなわれてきましたから、その一環で「定義づけること」が優先されてきたように思います。 それは、今まで、日本において同性愛というものを明確に、そして社会全体に浸透する形で定義づけるものがなかったからでもあるのでしょう。 そのことは、決して悪いことではなく、性に絡む問題であることに加え、セクシャリティそのものが目に見えないものであり、タブー視されてきたこと、ところがその反面、日本の性的マイノリティを取り巻く環境が、必ずしも窮屈なものではなかったことが、複合的に絡み合っていたのではないかと考えられます。 もちろん、生きていく上での難しさは存在したわけですが、それでも、部落差別や黒人差別のような人権問題と比べるのも恥ずかしい位に深刻なものではないわけですから、問題として取り上げられる優先度が低いままであったと理解するのが、妥当かと考えます。 ただ、確実に言えるのは、「自分は何者か」を考えるのに、細分化したコトバの垣根は必要ない段階に、既に(あるいは、元々)日本はあるのではないか、ということです。 私は、男性として男性を愛する「男性同性愛者」でありますが、“シスジェンダー” なんてことを意識したことはないし、WHOで過去に同性愛が病気扱いされていたことも知らずに、30年くらいは生きてきていたのです。 だからと言って、同性愛者として “失格” などと言われる筋合いもないわけです。 自分たちが作り出した “垣根” を壊し、垣根の外へ出て、もっと自分の “根源” を知ってもらい、共に生きていけるよう、ポジションを変えていくタイミングが来ているのではないでしょうか。 私は、同性愛者であることを認めてもらいたいのではなく、ありふれた一人の人間として認められるよう、これからも人としての成長を続けると共に、社会に貢献していきたいと考えています。 (2020年8月13日初稿)



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