
洪均 梁
LGBT活動家による "異常な" 検閲行為を考える ②
更新日:2021年3月24日
最近、一部のLGBT活動家が、
「自分たち(LGBT)を演じるのなら、当事者を起用しろ」
「我々(LGBT)をモチーフにするのなら、我々の監修、許可が必要だ」
「LGBTを演じたり、LGBTを使って作品を世に出したのなら、我々の運動(LGBT運動、同性婚成立運動)に賛同せよ」
などという発言をし、物議を醸しています。
今回は、LGBTによる“異常な”検閲行為(に向かう懸念を含め)について、私の意見及び提言を2回に分けて述べる、その最終回になります。
LGBTの監修で映画、舞台、ドラマを制作するという愚かな行為
「世間に広く感動を呼ぶ、良い映画を作りたい」
「リアリティを追及し、現実の世界に近いフィクションを追及したい」
など、素晴らしい作品を作るために、例えば、当事者の体験や意見を聞くことは、全く問題はありません。
しかし、そこで、忘れてほしくないのは、「誰かが教える “ストーリー” は性的マイノリティの全てに共通のものとは限らない」ということです。
そもそも、LGBT活動家は全て、自分の意志で勝手に活動し始めたのであり、性的マイノリティ全体の代表でもないし、ましてや我々に選ばれた人間でもありません。
XX士とかXX先生とか、社会的肩書がついた人の話は、一見「正解」のように思えることでしょう。
でも、私たちが私たちであるアイデンティティは「誰を、どのように愛するのか」というところにあるに過ぎない以上、その人の話はその人にだけ有効な話なのです。
誰かの経験、知識、意見に、共通項を見出すことは可能でしょう。
また、他人の共感や支持の大小もあることでしょう。
しかし、私は、私の経験や知識、意見が性的マイノリティの全てを代表するとか、「俺の言っていることが全てだ!」なんて、これっぽっちも思わないですね。
むしろ、「こういう人もいる、こういう考え方もある」という程度の参考にでもなれば十分という感覚です。
もちろん、私の人生を題材にした映画やドラマでも作られるのであれば、幼少期の私はXXさん、学生の頃の私はOOさんに演じてほしい!・・・などと妄想は果てしなく広がるわけですが・・・どこか、私に興味のある映画会社などがあれば、いつでもご連絡を頂ければと思います。(笑)
閑話休題。
さて、性的マイノリティは、自分とは何か、人生とは何か、について、人生の早い段階から真剣に考えている人が多いと私は思います。
それは、特に子供の頃に、自分と同じような境遇の人を、周りに見出すのが難しいからかも知れないな、と想像するのですが。
多感な頃に孤独を感じ、自分は孤独だと思い込んで生きてきた人が多いとするならば、もう、今やネットが若い人たちの救いになっているのかも知れないと、期待を寄せるところではあります。
しかし、自己肯定感が低い人がやはり多いとするならば、先ほども触れたように、ちょっとしたことにも自己投影し、たやすく傷つくのかも知れませんし、自己肯定感が低い分、他人に期待を寄せてしまいがちで、それ故に相手の完璧さをより一層求めてしまいがちなのかも知れません。(自分に対しても、完璧さを求めてしまうのかもしれないな、と思います)
だからこそ、昨今見受けられる、些細なことに対する過剰なまでの拒否反応や執拗な批判、誹謗中傷や侮辱にも繋がっているのではないかとも感じます。
これは、個人の人間性や成熟の度合いに関わる話ということもさることながら、もしかしたら(これはまた、別の機会にお話ししようと思っていますが)「社会の精神の強靭性が弱くなってきていることと関係があるのでは?」と思うところもあり、性的マイノリティのうち、一部のLGBT活動家が声高に叫ぶことを、善意のつもりで必要以上に聞きすぎると、本質を見誤り、現実から乖離したものを世に送り出しかねない可能性はゼロではないことを、是非とも気に留めておいていただきたいと思います。
また、当事者の意見を聞くことがエスカレートすると、「LGBTに関することは、OOさんやXXという団体の承認がないとダメだ」ということにもなりかねません。
先にも述べましたが、LGBTのことが色々と言われているご時世だから、きちんと彼らの話を聞こうという姿勢に、問題はありません。
でも、それに乗じて「俺たちのことを取り上げるなら、俺たちを使え」とか「俺たちの許可なく、こんなもの作るな」なんて方向に我々が進むのはおかしいと思います。
他人からのレッテルに、多かれ少なかれ苦しんできたであろう我々が、いつの間にか、自分の都合で事実をゆがめるようなことがあってはならないと思います。
もし、描かれて都合が悪いものが何かあるのであれば、それを描くことを止めさせるのではなく、都合が悪いこと、それ自体を止めればいいのです。
私は、昨今の、一部のLGBT活動家やその支持者による過剰な反応及び異常なほどの攻撃性により、「こういうご時世にLGBTを初めとする性的マイノリティを取り上げるのはやめよう」とか「本当はこういう風に描くのが事実に即するのだが、うるさいことを言われかねないので、違う演出にしよう」というように、我々の期待することと異なる対応をされるようになるのが一番問題であると考えます。
昨今のLGBT活動家やその支持者の意見を見ていると、
「たった一人でも気に入らない人間がいれば、やってはいけない」
というものを、よく目にしますが、これは危険な思想であり、こういう暴論を、許してはならないと思います。
これが許されるならば、批評すらできなくなるわけです。
批判を感情と結びつけるから、おかしなことになっているのです。
主体的な「感想」を集め、「あんたの作品にこんなに批判的な意見がある。だから、あんたは悪いんだ」と言うのは、一見まっとうな物に見えるかも知れませんが、客観性に欠ける以上、意味はありません。
「貴重なご意見、ありがとうございました」
で済ませれば十分だと思います。
芸術や芸能に対する批評は、芸術家や芸能の関係者により更に磨きをかけられ、次の作品に反映されていかなければならないのであり、それが、芸術や芸能を芸術や芸能たらしめるのではないでしょうか。
従って、私は、芸術や芸能の作品の中で、私たちが昇華していくことに期待をするべきであり、そのためには、芸術や芸能を感情的な批判や感想で片づけるのではなく、客観性を担保した「批評」をしなければならないと考えます。
例え、色物であっても良いじゃないですか。
時には、差別をしてはいけないものとして再認識させるために、ゲイが気持ち悪い存在で、変態だからバカにしても良いし、排除しても良いというような設定にされている作品が出てくるでしょう。
でも、それを排除するのではなく、そこに織り込まれた意図を汲み取れる感受性のアンテナを研ぎ澄ますべきなのです。
私は、性的マイノリティが、ありふれた存在として、肩ひじに力を入れることなく、演じられ、色眼鏡で見られることなく、まっとうに評価されることを期待しております。
必要以上に気を遣わず、どんどん、様々なシーンで性的マイノリティが取り上げられるよう、お願いしたいと思います。
そして、私自身は、
あなたが誰かの好き嫌いに翻弄されている時には、その ”美学”(その人の美意識や哲学)の良き理解者であり、また、あなたが誰かの好き嫌いに迎合して満足している時には、あなたの美学を貫いて欲しいがゆえに酷評する存在
であり続けたいと思っております。
(2020年7月28日 初稿・7月30日 改編)